【特集】蓮如上人のご生涯
吉崎御坊の建立
文明3年(1471)の初夏、蓮如上人は、弾圧の危険の多い近江(滋賀県)から、北陸へ向かわれました。
近江の門徒は別れを悲しみ、
「私たちが本願寺を再建しますから、どうか、この地におとどまりください」
と懇願しました。けれども、蓮如上人は比叡山を指さされ、
「あれが近いからな」
とつぶやかれたといいます。
だれもが、安心して聞法できる、寺院を建立できないものか。その願いも、近畿地方では、とても不可能であったのです。
かくて、布教拠点を、越前(福井県)の吉崎へ移されました。上人、57歳の御時であります。
「吉崎というこの在所、すぐれておもしろき間、年来虎狼の棲みなれしこの山中をひき平げて、七月二十七日より、かたの如く一宇を建立し……」
『御文章』の一節です。まさか、虎や狼は住んでいなかったでしょうが、荒れるにまかせた北陸の寒村でした。
本堂の建立には、おびただしい資材がいります。柱一本にしても、年数を経た巨木をあてなければ、重い屋根を支えることができません。ところが、これら一切、門徒のご報謝で驚くべき短期間でそろったのでした。

吉崎御坊跡(福井県)
水面に投じた波紋が広がるがごとく、真実の殿堂が完成したと伝え聞いた人々が全国から参詣するようになりました。
たちまち問題になったのは、宿舎不足でした。吉崎御坊は、野中の一軒家みたいなもの。越前や加賀の人でさえ、日帰りの参詣は難しい。泊まり切れない人は、本堂の周辺か、雑木林で野宿するしかありませんでした。
必要に迫られて登場したのが、各地の末寺の出張所兼宿泊所の役目をもつ「多屋」でした。門徒を宿泊させるところで、主宰者は僧です。これを「多屋の坊主」といい、また、その妻を「多屋内方」といいました。多屋の坊主は、参詣者の案内役を務め、妻は宿泊の世話をしました。
次第に、多くの門徒や商人が吉崎へ移住して家を構えるようになり、わずか2年余りの間に、二百軒近い多屋や民家が軒を並べるようになりました。
「この山中に経廻の、道俗男女その数幾千万という事なし」
吉崎は大変なにぎわいをみせ、遠路をいとわず数万人に及ぶ門徒衆が集ったといいます。
「虎狼のすみか」とまでいわれた北陸の一寒村が、あっと言う間に、広大な寺内町に変貌したのです。まさに、仏法力不思議、でありました。
「これ偏に末代今の時の罪ふかき老少、男女において、すすめきかしむるおもむきは、なにのわずらいもなく、ただ一心一向に弥陀如来をひしとたのみたてまつりて、念仏申すべし、とすすめしむるばかりなり」(帖外御文)
蓮如上人が特別な教えを説かれたから、人々が群参したのではありません。親鸞聖人のみ教えどおり、「阿弥陀仏の本願に救い摂られる以外に、我々が幸福になれる道はない。阿弥陀仏一仏に向かいなさい」と、勧められるばかりでありました。
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